自分の心を守ること
トップスターや路線スターの相次ぐ退団発表、休演・代役公演、現役歌劇団員の逝去、公演中止。ここ数か月で様々なことが起きている。直接的に贔屓と関係がないことがほとんどの私ですら心があっちにこっちに引っ張られてバラバラになってしまいそうなのだから、ご贔屓が関係している方の悲しみはいかばかりか、考えては胸が苦しくなる。
こういう時、旧Twitterのタイムライン上にやさしい言葉が溢れているところがこの界隈の素敵なところだなあと思いながら、同時に、そんなやさしい心でいられない自分を責める気持ちが出てきてしまう。悲しい時にその気持ちを押し込めて誰かを思いやるだけの懐の深さが私にはないのだ。「1789」大劇場公演で空港に着いた瞬間公演中止のお知らせを見た時、その場で床に寝っ転がってじたばたしながら嫌だ嫌だと泣き喚きたい気持ちだったし、SS席のチケットが飛んだ時はもう二度と遠征なんかしないとも思ったし、どうしたって気に入らないこととかイラっとしてしまうことは数えきれない。なんで私ってこんなに心が狭いんだろう。そう思っていた。
自分の気持ちと向き合ったり、友人と話していたりして見えてきたのは、「誰だって人に言えないようなドロドロした汚い気持ちの一つや二つや三つや四つ持っている」ということ。優しいと思う人だってそういう気持ちを確実に持っている。ただそういう人はアウトプットの仕方がとても上手で、丸く柔らかく成形してアウトプットすることが出来るというだけだ。「思うこと」「考えること」すら悪いことだと思ってしまったら、それすら禁じてしまったら、いつか心が壊れてしまう。そして、壊れてしまった心は完全に元の形に直すことは出来ない。自分の中のどんな感情も自分の中から生まれ出てきたものなのだから間違っているなんてあり得ない。全部正しい。ただ、絶対的で普遍的な間違いはひとつ存在している。「考えなしに誰かを傷付けること」だ。生まれ出た感情を生まれたままの形でぶつければ相手を傷付けてしまうことがある。ぶつけてしまった相手と信頼関係を築けていればそれが多少の緩衝材になるけれど、SNS上だけでの関係性では恐らくダイレクトに衝撃を与えて、下手したら相手の心を壊してしまうかもしれない。直接的に誰かを攻撃してしまわないか、一旦考えてからアウトプットする。それさえ気を付ければ、どんな考えもその人の自由だ。そして、それを旧Twitterにしか零せないのであれば零したって構わない。考えなしに誰かを傷付けない限りは。
何を思うのも、何を発するのも、それぞれの自由。この世は万事「人による」。それぞれがそれぞれの心や思想やものさしを持っている。それが分からず自分のものさしこそ世界標準と思って勝手に測って殴ってくるような人もいるが、そんな人間は相手をしなくて良い。自分に誠意も敬意もない人間の相手までする必要はない。骨折り損のくたびれ儲けである。
そして、もしも零した言葉が悪気はないけど誰かを傷付けてしまった場合は、素直に「ごめんなさい」で良いのだ。誰一人傷付けずに生きるなんてそんな神業的な生き方が出来る人間はこの世にはいない。大切なのはしでかしの後のリカバリー。
もしこんな駄文を読んでくれている奇特な方がいらっしゃるなら。そしてあなたが昨今の宝塚関係のあれこれで胸を痛めているのなら。どうか何を思っても、自分を責めるようなことをしないで。あなたの気持ちも考えも全部あなたの個性でしかない。人と違うからって間違ってるなんてことは絶対にないから。