“ヅカオタ”という生き方~2020年花組公演「はいからさんが通る」~

「技術があるから良いトップスターである、という訳では決してない」。これは、某演出家の先生が語った言葉である。宝塚を御覧になったことがない方からすれば、「歌えて、踊れて、芝居も出来て、誰よりも美しいのがトップスターでしょ?」と思われるかもしれないが、この言葉の通り、そうとは限らないのがタカラヅカという世界なのである。

花組の現トップスター・柚香光さん(以下れいちゃん)は、その典型と言っても良いかもしれない。ダンスが得意な美貌のスターとして名を馳せている彼女は、失礼を承知で言うが、歌は上手くないし、芝居も安定感がない。それでも彼女はトップスターとして、歴史ある花組のトップスターとして君臨している。なぜなのか。技術以上の魅力を彼女が持っているからだ。

美しいビジュアルや、穏やかさとやんちゃさを併せもったチャーミングなお人柄はもちろんのこと、やはり彼女の魅力といえば、そのお芝居にある。安定感がないのは、恐らくその時その時の感情の変化を大切に演じてらっしゃるからだろう。だからこそ胸を打つ芝居をするのがれいちゃんなのである。

「はいからさんが通る」を見た際、こんな場面があった。ヒロイン・紅緒ちゃん(華優希ちゃん)の幼馴染である蘭丸(聖乃あすかちゃん)が、伊集院少尉(れいちゃん)に対して、こんなセリフを言うのである。

「紅緒さんのこと、ちゃんと守ってあげて。」

聖乃あすかちゃんは、日を追うごとにこのセリフのクオリティを上げていっていたが、私が見た中で一度、迫真の「守ってあげて」だった日があった。

そのセリフを受けた瞬間。少尉の感情がぐらりと揺れ動いたのが見て取れた。少尉には、紅緒ちゃんのピンチには必ず駆けつけている自負がある。だからこそ、その後のセリフは毎回軽やかで、自信に満ちたものだったのに、その日の少尉はとても苦しそうで、「守る」ということの重みを、お姫様抱っこした紅緒ちゃんの重みとともに感じているようだった。

普通に考えると、いくら舞台は生ものとは言え、一つの作品の中で昨日と今日の芝居の振り幅が大きいのは好まれない。技術的に不安な面があれば尚のこと。そういう部分に気が回ってしまい、肝心のストーリーに全く没入できないからだ。

しかし、宝塚は違う。そういう一見ネガティブな部分もポジティブに受け取り、全てを包み込んで受け入れてしまった人たちが、「ヅカオタ」と呼ばれる人たちなのではなかろうか。ヅカオタの愛は深い。歌が下手ならそれをネタにして笑い飛ばし、少しでも成長が見られれば涙ぐみながら大きな大きな拍手を送る。上手いとか下手とか最早関係ない。その人を、その組を、タカラヅカという世界を、どれだけ愛しているのか。それに尽きる。タカラジェンヌの成長を母のように、祖母のように、無償の愛を持って(むしろめちゃくちゃお金を積んで)見守る、それを糧に生きているのがヅカオタなのだと思う。

かくいう私も、一時期は「歌劇団と名乗るからには、歌は歌えなくちゃダメでしょ。」なんて意地の悪い考えが頭の片隅にあったが、今やすっかり「れいちゃん最高!!爆イケ!!大好き!!!!」という完全な思考停止に陥っているし、何より「はいからさんが通る」はエンターテインメントとしてめちゃくちゃ楽しめた。漫画から飛び出してきたような登場人物たちの活き活きとした姿は見ていて痛快だった。度々劇場にも足を運んで観劇し、Blu-rayは発売日に買いに行くほどのハマっりぷり。沼とはこのこと。愛してんで!!!

誹謗中傷問題で揺れる宝塚歌劇団。技術的に未熟な人ほど叩きやすく標的にされがちだと思うが、誰かが10の力で叩くなら、私は500とか1000とかそれくらい力で愛を伝え続ける。そういうヅカオタに、私はなりたい。それが、微力だけれど、誰かの力になると信じて。